識名園入口
県道222号線沿いにある、識名園の入口。
2006年07月17日
識名園は、識名にあるのかと思っていたら、識名園の敷地のほとんどは真地内にあるようだ。入場口でもらったリーフレットによると、識名園は、十八世紀の終わり頃に造られた琉球王家の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されたとのこと。首里城との位置関係から、御茶屋御殿を「東苑」、識名園を「南苑」と呼ぶこともあるのだそうだ。
2006年03月05日
園内から見た正門。国王一家や冊封使は、この門から出入りしたのだそうだ。
2006年03月05日
表から見た正門。
2006年03月05日
園内から見た通用門。
2006年03月05日
表から見た通用門。
2006年03月05日
番屋
正門や通用門の近くに建てられている番屋。番人の詰所として使用されていたのだそうだ。
2006年03月05日
2006年03月05日
通路
正門や通用門から御殿へと続く道は、石敷きになっている。木陰が多いので、夏でも涼しそう。
2006年03月05日
園内のところどころで、発掘調査が行われているようだった。
2006年03月05日
育徳泉から御殿へと通じる砂利道。両脇の石垣が良い雰囲気。
2006年03月05日
育徳泉
正門から園の中央に向かって延びる石畳道の途中にある育徳泉。育徳泉は、淡水藻「シマチスジノリ」の発生地として、国の天然記念物にも指定されている。井戸の上には、育徳泉を讃える甘禮延齢碑(左)と育徳泉碑(右)の、二つの石碑が立てられている。
2006年03月05日
2006年07月17日
育徳泉の石積みの上に立つ育徳泉碑。嘉慶五年(1800年)、尚温王の冊封正使・趙文楷が題したもの。
2006年07月17日
育徳泉の石積みの上に立つ甘禮延齢碑。道光十八年(1838年)、尚育王の冊封正使・林鴻年が題したもの。
2006年03月05日
甘禮延齢碑の左隣にある拝所。
2006年03月05日
緑色のひょろっとのびた糸のような藻がシマチスジノリかな?
2006年07月17日
御殿
十五もの部屋がある、赤瓦葺き屋根の御殿。
2006年03月05日
座ってお茶を飲みたくなる、御殿の縁側。もちろん眺めも良い。
2006年03月05日
六角堂から御殿を望む。
2006年03月05日
御殿に隣接して建てられている駕籠屋。御輿を収める場所として、また、担ぎ手たちの休憩所として使用された小屋なのだそうだ。
2006年03月05日
池
御殿の前からの眺め。
2006年03月05日
育徳泉からの眺め。
2006年03月05日
池の畔の小島に建つ六角堂。六角堂がいつから六角になったのかは謎のようで、堂内に立てられていた案内板によると、大正五年(1916年)の琉球新報の記事に四角い東屋の写真が掲載されており、少なくともその時点までは六角堂が四角だったことが確認されているとのこと。四角の六角堂は「六角堂」とは呼ばれていなかっただろうから、何か別の呼び名があったのかもしれない。
2006年03月05日
2006年03月05日
池の中の小島に架けられている二本の石橋。
2006年03月05日
あふれた池の水が流れ出る滝口。安全のためか、滝口の下に降りる道は封鎖されていた。かつては、この近くに八角堂と呼ばれる東屋があったとのこと。
2006年03月05日
池の片隅にある舟揚場。
2006年03月05日
ガラサームイ
舟揚場から勧耕台へと続く道の途中にあるガラサームイ。かつてこの場所にあった大きな松の木にカラスがよく集まっていたことからこう呼ばれているのだそうだ。
2006年03月05日
壕跡
戦時中の識名園に置かれた日本陸軍病院識名分院に配された、防衛隊第3小隊1分隊のために掘られた壕の跡。この穴は縦穴で、主に空気孔としての役割を果たしたのだそうだ。
2006年03月05日
勧耕台
園内に造られた展望所。名前のとおり、ここから手入れの行き届いた田畑を観た王が、人々を励ましたとされている。
2006年03月05日
勧耕台は、中国の册封使に琉球が大きな国であると思わせるため、海が見えない場所を選んで造られたのだそうだ。
2006年07月17日
2006年07月17日
2006年07月17日
勧耕台の近くに立てられている勧耕台碑。甘禮延齢碑と同じく、尚育王の冊封正使・林鴻年が題したもの。
2006年03月05日
識名園周辺
識名園の外側、正門の近くにある拝所。
2006年03月05日