沖縄島の写真「勢理城」

2004_1009_160756.jpg
勢理城へと続く坂道(写真左の道)の起点にある、中間之御嶽(中間ノ嶽、神名:コダイシラゴノ御イベ)。
2004年10月09日
2007_0526_143040.jpg
中間之御嶽のある場所から勢理城のある丘の上まで、コンクリートの上り坂が続く。
2007年05月26日
2007_0526_143139.jpg
坂道を数十メートルほど上ると、勢理城の入口の階段が見えてくる。
2007年05月26日
2007_0526_143241.jpg
坂道の終端にある、勢理城の入口。「勢理城」と刻まれた、大理石の大きな名標が設置されている。
2007年05月26日
2007_0526_143327.jpg
入口の階段を上ったところに架かる小さな橋。その先には獅子が座っている。
2007年05月26日
2007_0526_143455.jpg
2007年05月26日
2004_1009_153819.jpg
村落獅子のなかでは最も古く、最も大きい。
2004年10月09日
2004_1009_154004.jpg
沖縄戦(1945年3月〜8月)の際に石獅子に付けられた銃弾の跡。
2004年10月09日
2004_1009_155628.jpg
琉球放送の番組『おきでん百添アワー・ウチナー紀聞』の「第396章 東風平町 シリーズ「地域とともに」(5) 」の回(2005.08.28 11:00~)で、「富盛の石彫大獅子」の由来について、石原信榮(いしはら・しんえい)氏の新しい説が紹介された。

これまでの説:昔、富盛の村人たちは火災に悩まされていた。風水を見てもらったところ、集落の南にある八重瀬嶽には火の性があるので、そこに向けて獅子を置け、とのことだった。そこで村人たちは、獅子を勢理城の丘の上に置き、火の山・八重瀬嶽に向けた。それからは火災は起こらなくなった。

新しい説:当時は、神聖な八重瀬岳から木を切り出してはいけなかったため、村人たちは、火を起こすためにサトウキビや木の枯れ葉を利用していた。村人たちは、火災の原因が八重瀬嶽にあるのではなく、燃え広がりやすいそれらの燃料を自分たちが不注意に扱ったことにあるのだと分かっていた。しかし、獅子作りは首里王府からの命令である。しかし、魔除けのための獅子を神聖な八重瀬嶽に向けることはできない。悩んだ村人たちは、獅子が八重瀬嶽に向かないよう、少しずらして置いた。

石原氏が実際に確認したところ、獅子は、八重瀬嶽に向いてはいなかったのだそうだ。
2004年10月09日
2007_0526_143522.jpg
2007年05月26日
2007_0526_143545.jpg
勢理城の中は、巨木に囲まれた小さな広場になっている。
2007年05月26日
2006_0122_143421.jpg
2006年01月22日
2006_0122_143343.jpg
2006年01月22日
2006_0122_143310.jpg
勢理城の奥にある、小さな展望台。
2006年01月22日
2004_1009_154929.jpg
展望台からの眺め。
2004年10月09日
2004_1009_155012.jpg
富盛集落のはずれのあたり。向こう側には南部工業高校が見えている。
2004年10月09日
2007_0526_143806.jpg
2007年05月26日
2007_0526_143849.jpg
2007年05月26日
2003_1013_160750.jpg
勢理城近くの道端にあるビロウ之御嶽(別称:カニマン御嶽、ヒラウ嶽、神名:コダイシラゴノ御イベ)。
2003年10月13日
2006_0122_142322.jpg
勢理城の丘の南側斜面にある、波平之殿の拝所。
2006年01月22日
2006_0122_142401.jpg
波平之殿から望む八重瀬嶽。
2006年01月22日
inserted by FC2 system